いま、時代の求めるもの-花園大学仏教シンポジウム-

※以下は、第1回花園大学仏教シンポジウムにおける、パネリストとしての問題提起をまとめたものです。

 ただいま御紹介にあずかりました関守研悟でございます。「混迷深き世相のいま、禅仏教に縁深き者のありようを考える」という議題に即したものになるかは分かりませんが、一学生として実際に受講するなかで、花園大学に思うことを述べさせて頂いて、21世紀の、禅にたずさわる者のありように結びつけていくことができれば幸いである、と存じます。

 今、花園大学において、特に禅学をみた時、文献学的研究や歴史学的、語学的研究がさかんにおこなわれております。
 学問を追究することは大切なことであると存じます。社会全体の文化レベルが高まり、人々の知的欲求が深まっておる即今、広く一般の方々にも門戸を開放していく、という意味においても、禅学の意義はこれまでにもまして大きくなっている、と思われます。
 また、この国際時代にあって宗教を掲げる我々が他国の宗教者と相対する際にも、学問抜きの境涯だけではもはや通用しないでありましょう。もし禅が教外別伝・不立文字を笠に着て学問を軽視して遠ざけるならば、禅は衰退して、いずれ近い将来滅びてしまうでありましょう。そういった意味では21世紀こそ、禅学が花開くべき時代であろうと思います。そしてその一翼を担うのが「花園大学」であると自負するところであります。

 しかし、学問を追い求めるあまり、かえって釈尊のお悟りの神髄が見えにくくなっては、これは本末転倒になるのではないかと思うわけであります。
 他のあらゆる宗教や教学仏教と一線を画する禅宗の特色、つまり、歴史上の過去でもなく未来でもなく、たった今、我々が釈尊とまったく同じ心をいただいて生きていることを自覚する、という面が軽視されるならば、これは危険なことだと思われます。学問を求めるあまり、結果として思索の紛糾を深めてしまうならば、果たしてこの世の真実はそのように難解、複雑なものであったか、という疑念を抱くわけでございます。
 また、語録を読む、ということに関しましても、学問は大切であります(過去の誤った解釈を正し、当時の祖師方の生き様を描き出す、そこには一つの真実があらわれている)。
ただ、禅語録を語学的に研究する中で、語録の一見ラジカルな面、過激で極端である、という表面だけが強調されることがあります。例えば臨済録にしても、臨済将軍という、仏祖の頭を踏みつけるが如きの働きが強調され、それこそが臨済禅である、とされることがあります。
 祖師方の老婆心といいますか、大いなる慈悲心、愛を読みとっていく、そのことが宗門唯一の大学機関において軽視されるとしたら、これは道をあやまるんじゃないか、そう危惧するわけであります。
 「愛」という言葉は、仏教では一般的に「渇愛」といって煩悩の元である、とされる場合が多いわけですが、もちろん、ここでの「愛」は自己愛・愛着といったものとは全く異なる、つまり釈尊のお悟りに端を発する大慈悲心であります。これを読みとっていくことが大事だと思うわけでございます。

 しばしば引用されるところでありますが、法華経巻第二に、『今この三界は皆これ我が有、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり』と、釈尊がおっしゃられたとあります。自他不二の妙道、お悟りを開けば当然、そういう心境になれるでしょうが、未だ悟りを開かない私どもであっても、そういう願いと愛情を持つことなら、誰にでもできる、何の準備もいらない、いま、この瞬間からできることだと会得するところであります。できてもできなくても、それに向かわずにはいられない、そういう願心・求道心を抱いていく、それが教え、学問ということの根本ではないか、それが花園大学に縁深き者のありようではないか、という思いをいたすわけでございます。

 抽象的なことばかりになってしまって誠に恐縮でございますが、本日はこれから、①混迷の世相をどう認識するか。②宗教人の果たすべき役割は何か、という議題に対し、様々な実践的・具体的な道人の働きが討議されることと思われます。私としましては、自分が外に向かって馳求する底の者にならぬよう、先ず自己の足元を見つめる、自らが一生をかけて帰依していく宗教を見つめ直す、という見地から道人のありようを私なりに述べさせて頂きました。
 片足をあげて前に進まなければならない、これが進歩・時代の要請であるならば、一方では、大地をしっかりと踏みしめていくもう一方の足がなければころんでしまう、そのことを再確認して、私の提起を終えたい、と存じます。
 未熟者が駄弁を弄し、明眼の皆様方の尊聴を汚しました。御叱正を乞う次第でございます。ありがとうございました。
(2000年10月、花園大学教堂にて)