仏教QandA ~禅宗の立場から~
■葬儀に関して■
《 人間、死んだら何処へいくのですか 》
「死んだらどうなるか」という命題は私たちにとって一番知りたいことです。しかし、その命題についてあれこれ思いをめぐらすことは、執着の種にもなります。
基本的には、死んで焼かれて灰になってしまえば、「おおいなるいのち」に還っていくのみ、というのが私たちの宗旨です。たった一度きりの人生なのですから、精進せずにはおられません。
しかし、やがて骨が土に還り、その土が作物を育て、生物を育て、やがて縁あって新たな命を授かると考えることもできます。
又、遺族が思いを寄せることにより、遺族の心中に永遠に生き続ける、と考えることも大切な私たちの心のはたらきといえます。
いずれにせよ、私たちはまだこの世のことについてもすべて知り終えることはできません。ましてやあの世について知ることは時期尚早といえます。
お釈迦様は、このような、解決不能な形而上学的問題については、黙して語られなかったといいます。私たちは、「今、ここ」を生きています。死んだ先のことをあれこれ思いめぐらせるのではなく、自分の足もとを見つめて、今、このかけがえのない一瞬一瞬を生きることこそが肝要だとお釈迦様は示されました。
《 地獄、極楽はありますか 》
地獄、極楽は確かにあります。しかし、その場所は、死後に行くものではなく、今、この世にあるといえます。「私が変われば世界が変わる」、この現世を地獄にするか極楽にするかは、私達一人一人の生き方次第です。
《 葬式をして亡くなった人はどうなるのですか 》
私達は、本来何もないところから、仏縁あってこの世に生まれ、今、ここに生かされています。やがて、命尽きると、また本来の何もないところに帰ってゆきます。この、「何もないところ」は「おおいなるいのち」と言い換えることもできます。「おおいなるいのち」は、この世に充満している真実です。また、縁があれば、新しい命を結ぶこともあるでしょう。しかし、再び人として命を授かることは、極めて有り難いことです。思えば、今、私達が人間としてこの世に生かされていることは奇跡といえます。
(宗旨の本意は「断碑、古路に横たう」「十字街頭の破草鞋」の如きでありますが、衆生の安心を第一に考えるならば、そこに救いがなければなりません。ここでは輪廻思想を取り入れ、質問者の不安を解消することを願いました。)
《 水子は祟りますか 》
結論から申しますと、「祟る」ことはありえません。母に抱かれながら力尽きた命は、「おおいなるいのち」に帰ってゆきます。「おおいなるいのち」は、誰かを憎んだり呪ったり、家族に災いをもたらしたりすることは決してありません。もちろん、残された私達が、その幼い命の菩提を祈ることは大事なことです。もし、「水子が祟っている」と感じるならば、それは私達の心の作用です。その子の冥福を一心にお祈りしましょう。
■霊魂について■
《 霊魂は存在しますか 》
お釈迦様は、「霊魂は存在するか」という質問にはあえて解答しなかったといわれます。仏教は「霊魂否定説」とされ、霊魂の存在を否定しています。お釈迦様のお悟りは、過去・現在・未来を貫く霊魂の存在を否定し、輪廻転生の苦しみから脱却するところにその眼目がありました。
《 もし霊魂が存在しないのなら、中陰や法事などの亡者供養は何のために行うのですか。どこにその価値をみいだせばよいのですか 》
確かに、仏教、特に禅宗は霊魂を認めませんが、一方で、古来から私たちは、死者の怨霊の「たたり」というものを恐れてきたということも事実です。この抜きがたい人々の心情を頭から否定するのではなく、仏教的な生き方に転化したのが、私たちが営む亡者供養であるといえます。
亡者供養は、生きている人間の死者に対する祈りであり、死者に対してとむらいの祈りを捧げることにより、今、この世に生きている私たちの生き方が豊かになってゆく、というところにその眼目があります。
《 「たたり」というのはあるのでしょうか 》
死者が怨霊となって生きている者に災いをもたらす、ということは一切ありません。一見、「たたり」と思われる現象も、それらはすべて生きている者の「心の迷い」による暗示によるものです。
《 悪霊が体に乗り移るということはありますか 》
ありません。マス・メディアなどでそのような番組が紹介されることがありますが、それらは迷える心をもつ人々を救うための一種の方便と理解されます。
《 仏壇とお墓、霊魂はどちらにいるのですか 》
先にみたように、仏教の宗旨では霊魂は否定されます。お仏壇の位牌やお墓は生きている人間の死者に対する祈りを捧げる対象としてお祀りされています。
ですから、お仏壇の前で手を合わせて死者を思いだす時、霊魂はお仏壇におられます。また、お墓参りに行き、きれいに墓所を掃除して、死者がやすらかにその地に永眠することを祈る時、霊魂はお墓におられる、ということができます。
《 輪廻転生するというのは本当ですか 》
輪廻転生とは、生きとし生けるものは死んだ後、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のいずれかに生まれ変わり死に変わりして霊魂が永遠に流転する、というインド古来の思想です。
釈尊の悟りは、万物と不二なる無我の自覚でありました。無我ならば、我というものがないので、生死の中にいて、生死にも染められません。まさに生死からの脱却、輪廻転生からの脱却であったということができます。
《 霊魂は地獄か天国に行くといいますが、それはどこにあるのですか 》
一般に説かれる前世、来世や地獄、極楽は、今世をよりよく生きるための善巧方便です。地獄、極楽はこの世のことであり、同じ人物がこの世で仏にもなれば餓鬼にもなるともいえます。迷わずまっすぐ、精進を積み重ねてゆきましょう。
《 先祖供養と禅の宗旨とを結びつけるものはどういう点にありますか? 》
禅は霊魂の存在を認めません。それらは煩悩の所産であるとされています。なのにその一方で、中陰や法事、施食などの先祖供養を粛々と営んでいます。
それらは相反する、矛盾したことのようにみえますが、それは一つの方便と捉えることができます。死者の霊魂を感じ、生前の恩に報いる生活をめざす時、いまこの世に生きている人の生き方が豊かなものになっていきます。先祖の霊魂がやすらかに永眠することを一心に祈る時、その人は煩悩を携えたまま菩提の境地に入ることもできます。先祖供養を営むことにより、生きている者の迷いが取り除けるのなら、まさにそれは禅の宗旨であるといえましょう。
■仏壇・仏具・お供え■
《複数の家(姓の異なる)の位牌を祀ってよいのですか》
それぞれのご家庭には、それぞれのご縁があります。縁に随って、姓の異なる位牌をひとつの仏壇でお祀りすることは、悪いことではありません。お寺の本堂や位牌堂でも、縁に随って、姓の異なる位牌を一緒に安置して、菩提をお祈りしています。
《分家が本家と重複して親等の位牌を祀ってもよいのですか》
分家・本家の合意の下であれば、もちろんかまいません。妙心寺開山無相大師のお位牌などは、妙心寺派すべての寺院でお祀りされています。
《亡くなった方がなくても仏壇をお祀りしてもよいのですか》
氏子であれば神棚をおまつりするように、仏教徒であれば亡くなった方がなくても仏壇をお祀りするのはおかしいことではありません。仏壇のご本尊、お釈迦様を家でお祀りすることは、仏教に帰依する者の証しともいえます。
■お経について■
《お経は誰のために読むのですか》
お経を読むのは、
1、お釈迦様や祖師方にお祈りをする
2、ご先祖様や亡くなった方の冥福を祈る
3、お経を聞いている、今を生きている人と共に救われることを願う
といった理由でお唱えいたします。このうち最も大事なことは、3番目の、今・ここを生きている人が救われるために読むことだといえます。
《家のお仏壇には何のお経を読めばよいのですか》
どのお経を読んでも功徳がありますが、例えば、まず『般若心経』を読んで、釈尊に守られることを願い、次に『白隠禅師坐禅和讃』をお唱えして、ご先祖様の恩に感謝し、自分が今日生かされていることに感謝すればよろしいと思われます。お経を読んだ後、静かに坐って、体と呼吸と心を落ち着けましょう。
《お経は誰が作ったのですか》
釈尊の弟子が作りました。インドで作られたもの、中国で作られたもの、日本で作られたものがあります。
《お経の長さの違いは》
短いお経よりも長いお経の方が功徳がある、ということはありません。短いお経も長いお経も平等に功徳があります。
《回向の意味》
「回向」の意味を端的に示しているのが、「普回向」です。「願わくはこの功徳をもって普く一切の衆生と共に、仏道を成ぜんことを」、つまり、先に読み上げたお経の功徳を、迷える心・すべての生きとし生けるものに振り向けて、皆が救われて釈尊の悟りの境地に到りますように、と願う私たちの「祈り」が「回向」です。
■宗派・宗旨について■
《新しい宗派はどうしてできるのですか》
既存の宗派に帰依して修行を積んで悟りを開いた大和尚が、お寺を造ったり、独特の教化方法で人々を導いた場合、後に弟子から新しい宗派としてとりあげられることがあります。その大和尚みずからが新しい宗派をうちたてることはまずありません。今日、「わしが宗祖である」と新宗教をうたう方がおられますが、その宗教の真偽については疑問が残ります。
《宗派の変更はできますか》
宗教とは本来、今、ここを生きている人に心の安らぎをもたらすものです。束縛するものは何もありません。あなたが他宗に帰依し、本当に心の安心を得ることができるならば、もちろん変更はできます。ただし、古来の宗教ではなく、新しくできた宗教に改宗する場合は注意が必要です。中には、お金儲けを目的とした集団もあります。和尚さんや親族によく相談することをお勧めします。
■お墓・納骨について■
《 他宗派または他家の遺骨を入れてもよいものでしょうか 》
この世に生を受けた生きとし生けるものは死ぬと再び「大いなる命」に帰って行きます。そこには他宗派・他家の区別はありません。ですから一族のお墓に他宗派・他家の方の遺骨を入れて共にお祀りすることは悪いことではありません。但し、菩提寺に永代供養墓などがありましたら、そこに合祀するという方法もあります。
《 人間とペットの遺骨を一緒に納めて入れてもよいものでしょうか 》
人間もペットも自然界の「大いなる命」から縁あってそれぞれの姿でこの世に生を受けて生まれてきました。そして死ぬと再び大いなる命に帰って行きます。生きとし生けるものに本来区別はありません。ですから人間とペットの遺骨を一緒に納めて入れても特に問題はありません。但し、菩提寺にペットが入るお墓や永代供養墓などがありましたら、そこに合祀するという方法もあります。
《 墓相に良し悪しはあるのですか 》
まったくありません。一番大事なことはご先祖様の冥福をお祈りし、自身が生かされていることを感謝することにありますから、お墓の形や材質、方角や環境を気にかける必要は一切ありません。
《 散骨してもよいのですか 》
近年、自然に還りたいという願望から、散骨に対する注目度が高まっております。散骨は悪いわけではありませんが、お墓に入るほうが他人に迷惑をかけず、身辺もきれいに整理して、けじめをつけてこの世を去ることができるといえます。お墓にきちんと入っても、もちろん自然に還ることができます。
《 お墓の存在と価値 》
お墓は、ご先祖様がやすらかに眠ることを祈ると同時に、今、生きていることに感謝し、亡くなった方の恩に報いることに気付き、生き甲斐を感じるところにその存在と価値があります。
《 ご先祖様はお墓と仏壇のどちらに居るのですか 》
ご先祖様の命は、この宇宙に満たされている「おおいなる命」に帰っておられます。ですから、ご先祖様はこの世界のどこにでもおられるということができます。私たちがお墓をきれいに掃除して、心を清める時、ご先祖様はお墓におられます。また、お仏壇の前で手を合わせ、ご先祖様の冥福をお祈りする時にはお仏壇におられます。
「おおいなる命」は空気のようにどこにでも満ちていますから、例えば雄大な山を見て自分と山が一体になった時、その山がご先祖様だということもできます。ああ、こんなところにもご先祖様はおられるんだなあ、と気付いた時、ご先祖様は安らかに眠りにつくことができるでしょう。
《 塔婆とはなんですか 》
塔婆はインドの梵語(サンスクリット)ではストゥーパといい、中国でこれを意訳して卒塔婆、略して塔婆といいます。古代インドでは、塔をつくることは、貴人を埋葬する法だったので、釈尊御入滅後、その御遺骨(仏舎利)を八ヶ所に分けて埋葬し、それぞれに塔を建てたと伝えられています。
故人の冥福を祈り、その追善供養のために建てる塔婆ですから、年忌法要の時や、春秋の彼岸、お盆、お施餓鬼、その他ご先祖の墓前に特別のご報告などする場合に建てるのです。
塔婆は仏さまのお姿を象徴したものですから、塔婆を一基建てれば、仏像を一体造ったと同じです。だから、塔婆に菩提寺でお経をあげていただいて、先祖のお墓の傍に建てれば、先祖の霊が安らかに往生できるという深い、尊い意味があります。
この施主のまごごろは遠い先祖にまでも喜ばれ、また施主自身の罪障を消滅し、福徳を招くもとになるのです。
《 なぜお墓に水をかけるのですか 》
水は清浄なものであり、お墓の汚れや、心の汚れを清めるものです。死者の渇きをいやすためのものでもあります。また、水鉢に水を満たすのは、故人と墓参者を結ぶ「いのちの水」を湛(たた)えるためとも言われています。
《 お墓の正しいまつりかた・お墓参りの作法は 》
お墓参りの作法をマニュアル化することには抵抗がありますが、一例を挙げさせて頂きます。
・手桶に水を汲んで墓に向かいます。
・合掌礼拝してから墓所の雑草を取り、植木の手入れ、枯れ葉やゴミの清掃をします。
自分の家のお墓だけでなく、まわりのお墓や通路もきれいにしましょう。
・墓石の泥やこけ、シミ、鳥のフン等を洗い清めます。
・墓石に水をかけ、水鉢に水を満たします。
・花立に生花を飾り、供物を供えます。
・灯明(ローソク)をともし、線香をあげます。
灯明(ロウソク)を立てるのは、墓所全体に対しての献灯という意味があります。
線香を焚くのは、その香気によって墓前を清めるという意味があります。
・合掌礼拝をしてご先祖様の冥福を祈ります。
・最後にきれいな雑巾を堅く絞って水気をきれいに拭き取ります。
水が石の上に残っていると、ほこり・ゴミ等がたまりそこにカビが生えます。
・帰る時はお花以外の供物は持ち帰るか、菩提寺に供養します。
お墓参りは、ご先祖様の冥福を祈ると共に、自分が今、生かされていることに感謝し、亡くなった方の恩に報いることを誓うことのあらわれでもあります。故人の霊に語りかけるように、霊が安らかになるようにお祈りすることの善行は、子孫長久の礎となり、ひいては世界の平和をもたらすことでしょう。
■さいごに■
※一口に仏教と申しましても、様々な宗派がございます。あくまで、禅宗の立場からみた、私個人の見解であることを、どうぞご了承くださいませ。
この QandA は、妙心寺宗務本所に提出したレポートを元にして作成いたしました。
特に禅宗は、檀信徒の民間信仰・先祖崇拝の中に、どう宗旨を位置づけていくかが今後の課題であります。「不立文字・教外別伝」に執着し、理論を避けていては、禅宗の未来はありません。