-安らかな気持ちになる3つの珠玉のことば-

 私たちは、この世を生きて行く中で、多かれ少なかれ、他人に言えない悩み事を抱えて生きています。そのような中で、私自身が感銘を受け、心やすらかな気持ちになることができた珠玉のことばを紹介させて頂きます。
心を落ち着けて、これらのことばをゆっくり、かみしめるように味わって下さい。あなたの心の重荷が少しでも軽くなることを願ってやみません。

私が変われば 世界が変わる

私が変われば 世界が 変わる
If I change, the whole world changes.

 私の師匠、河野太通老大師の有名なおことばです。
「あの人はいいひとだけれど、こういうところが気に入らない」、「みんな同じことをしているのに、私だけが損をしている」。人間関係や、自分の境遇について、思い悩むことはよくあることです。
 そんなとき、どうすればその悩みから解放されるでしょうか。
「あの人の性格が変われば、まるくおさまるのに」、「行政の考え方が変われば、もっと住みやすくなるのに」などと、考えることがあるかもしれません。
 自分をとりまく環境を、快適に変えていきたい。しかし、これは大変なことです。相手は他人なのですから。たまたま望み通りになったとしても、やがてさらなる快適さを求め、新たな悩みの種をつくることでしょう。人間の欲望は尽きることを知りません。

 ある国の王様が自分の城にいて、外の世界を歩き回りたいと思いました。しかし、城壁の外は岩がごろごろしていて、とてもそのままでは歩くことはできません。
 王様は、「皮のじゅうたんを世界中に敷きつめれば、どこにでも行くことが出来る」と考え、家来を総動員してじゅうたんを敷きつめようとしました。けれど、城のまわりを少し敷くのがやっとで、家来も王様も疲れ切ってしまい、財産もすべてじゅうたん代に消えました。悩んだ王様はやがて病気になって亡くなってしまいました。
 その国に住んでいた一人の子供もまた、世界中を歩いてみたいと思いました。でもその子供は、王様のように、外の世界を変えようとは思いませんでした。「ボクには皮のじゅうたんを世界中に敷きつめることはできない。でも、自分の足の裏に皮を張り付けることならできる。そうすれば、自由にどこにだって行くことができるじゃないか」と、皮のじゅうたんをほんの少し切り取って、皮ぐつを作りました。その子供はそのくつを履き、世界中を自分の庭にして、どこへでも歩いて行ける自由を得ました。これは先師、山田無文老大師のたとえ話です。

 悩み事を解決しようとして、外の世界を変えようとしてもきりがありません。うまくいかず、悩み・恨みの炎が尽きることはないでしょう。しかし、自分自身を振り返ってみることは、難しいことではありません。そうすることによって、いつもの景色とまた違った新たな世界が目の前に広がることでしょう。物事に執著して、縛られていた私の心は解き放たれ、自由を得るのです。
今、わたしにほんの少しの勇気と、発想の転換さえあれば。
「私が変われば世界が変わります」。

この身すなわち仏なり

これは、江戸時代の白隠さんというお坊さんが示した歌で、「この世の真実」を分かりやすく説いたものとして貴重な、わたしたちの宝物です。
 もともとこの歌は、幼い子供が聞いても理解できるように説くことを目的にしてつくられたものですから、時代にあわせて解釈していくことも必要であると思い、意訳をつけさせて頂きました。
 心を落ち着けて、下の意訳を見て頂ければさいわいです。
 読み終えたあと、少しでもあなたの抱えている荷物が軽くなることを願ってやみません。

『白隠禅師坐禅和讃』
『ー心をおちつけることー』
衆生本来仏なり
迷える心を持つ私たちも
本当は仏なのです
水と氷の如くにて
それは ちょうど
水と氷のようなもので
水を離れて氷なく
水がないと氷が
できないのと 同じように
衆生の他に仏なし
わたしたちを ぬきにして
仏は ありえません
衆生近きを知らずして
わたしたちが
仏であることを 知らずに
遠く求むるはかなさよ
あちこち 探しまわるのは
むなしいことです
譬えば水の中に居て
それは、たとえば
水の中にいながら
渇を叫ぶが如くなり
水をください!
と 叫んでいるようなものです
長者の家の子となりて
本当は
とても幸福なのに
そのことに気付かず
貧里に迷うに異ならず
「わたしは不幸だ」と
嘆いているのと
同じことです
六趣輪廻の因縁は
いつまでも
苦の世界から
抜け出すことが できないのは
己が愚痴の闇路なり
自分の境遇を
くよくよと 嘆くからです
闇路に闇路を踏みそえて
その 長い長い
闇を通り抜けて
いつか生死を離るべき
生きる・死ぬ という
想いから離れることが肝心です
それ摩訶衍の禅定は
そのために
「禅定=こころを落ちつける」
という行いは
称嘆するに余りあり
わたしたちにとって
大きな支えとなることでしょう
布施や持戒の諸波羅蜜
他人への施しや
自身への いましめなどの
行うべきこと
念仏懺悔修行等
ご先祖さまを おまつりすること
自分を反省すること
その品多き諸善行
さまざまな よい行いがありますが
皆この中に帰するなり
それらはみんな
「禅定=こころを落ちつける」
の中に含まれるのです
一坐の功を成す人も
ひととき、心をおちつけて
静かに坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ
悩みごとなど
実はなかったんだ、と
気付くのです
悪趣何処に有りぬべき
悪い出来事など
いったいどこにあると
いうのでしょう
浄土即ち遠からず
極楽は
いま、ここに
あるのです
辱なくもこの法を
ありがたいことに、
この教えを
一たび耳に触るる時
一度でも 耳にしたときに
讃嘆随喜する人は
深くほめたたえて
信じ、うけいれる人は
福を得ること限りなし
かならず
幸福を
手に入れることでしょう
いわんや自ら廻向して
ましてやみずから
ひたすらに祈り、
お唱えをして
直に自性を証すれば
本来の自分を
感じとることができれば
自性即ち無性にて
生きるとか 死ぬとか
男だとか 女だとかの
区別なく
已に戯論を離れたり
その瞬間、すでに
愛着や煩悩から
はなれているのです
因果一如の門ひらけ
私たちは今、
仏と一体になったのです!
無二無三の道直し
この ただひとつの
真実を歩んでいきましょう
無相の相を相として
真実には 本来
決まった形がないことを感じ
往くも帰るも余所ならず
どこに行っても
そこにやすらぎを
みいだしましょう
無念の念を念として
こだわらず、
心おだやかに
毎日をすごせば
謡うも舞うも法の声
行いが そのまま仏法となり
まわりの人を救います
三昧無礙の空ひろく
心は澄み切った
大空のように
自由に どこまでも広がり
四智円明の月さえん
煩悩を離れた
清らかなお月さまが
輝いています
この時何をか求むべき
このような時、
ほかに何を求めるというのでしょう
寂滅現前するゆえに
心が静まり、
究極のやすらぎが得られた今、
当処即ち蓮華国
この世が
そのまま
極楽であり
この身即ち仏なり
この身が
そのまま
仏なのです

(文責:関守研悟)

最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。上にも述べましたが、この歌は、この世の真実が記されている、私たちの宝物です。繰り返し繰り返し味わっていただければ幸いです。あなたの悩みが少しでも軽くなることを願ってやみません。

水のごとくに

最後に紹介させて頂くのは、昭和の名僧、山田無文老大師の詩です。私自身、生きる指針として大切にさせていただいております。折にふれ、じっくりと味わっていきたい珠玉のことばです。

水のごとくに

水のごとく よどみなく
さらさらと 流れたい。
どんな良いことがあっても、
どんな悪いことがあっても、
うしろをふり向かずに、
前へ前へ、
さらさらと流れたい。
左右の岸にどんな美しい花が
咲いておっても、
どんなに楽しく小鳥が
鳴いておっても、
その美しさをほめながら、
その楽しさをよろこびながら、
足ぶみせずに流れよう。
流れる水は凍らぬとか。
流れる水は腐らぬとか。
それが生きておると
いうことであろう。
田畑をうるおし、
草木を養い、
魚を育てながら、
決して高きを望まず、
低い方へ低い方へ、
水の流れる如く、
わたくしも流れたい。

(山田無文老大師のことば)

 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。この世は無常です。ならば、「どんな良いことがあっても、どんな悪いことがあっても、後ろをふり向かずに、前へ前へ、さらさらと流れたい」。今、このかけがえのない一瞬を精一杯生きていきたいと思います。
 「よどみなく」「さらさらと」水の流れるように生きていけるならば。わたしの心の重荷が少しでも軽くなることを願ってやみません。