「東西霊性交流」体験記―「永遠」と「無常」との交わり―

イタリア修道院滞在

 2003年の夏に、再び東西霊性交流に参加し、キリスト教修道士の方々と一ヶ月間、共に過ごしました。今回はイタリアの修道院に滞在することとなりました。
 イタリアは、ローマ・カトリック教総本山のバチカン市国を抱えており、たくさんの修道院があります。臨済宗・曹洞宗を含めて七人の禅僧が参加しました。私は、北イタリアにありますプラリア修道院で共同生活をしてまいりました。そこは、常に30人を越える修道士が暮らす大きな共同体でした。
 修道生活は、「祈り、働き、学ぶ」という3つの柱でなりたっており、1日6回、教会で神にお祈りを捧げます。その間に、労働・食事・聖書の勉強をいたします。
 プラリア修道院では、生計を立てるために養蜂を営んでいました。蜂蜜石鹸、蜂蜜クリーム、蜂蜜シャンプーなどを作る作業が労働の中心でした。
 前回のオランダ・ベルギー修道院滞在の報告では、宗派を越えて共通する真理について書かせて頂きましたので、今回は、キリスト教と日本仏教の違いについて気付いたことをご報告申し上げます。

「永遠」を理想とするキリスト教

 キリスト教と仏教の教義の違いは、発生した土地の気候風土の違いによるものであるという見方があります。
 キリスト教は、砂漠で生まれました。人間にとって、千里の砂漠にあっては、地上に頼るべきもの、理想とするものは何もありません。結局、天上の彼方に唯一の絶対的に価値があるものを求めて生きる以外になかったとも言えます。その絶対的な神を信じていれば、いつの日か必ず、この荒れ果てた砂漠世界ではない、どこかにある理想の世界に連れて行って下さる、そういう願いから一神教「キリスト教」が発生したと言われております。

 修道院には、必ず回廊があり、その中心は庭になっています。その庭は、神がお創りになられたこの世界、「天地創造」をイメージしたものだそうです。
 そこには、よく刈り揃えられた常緑樹が植えられていました。移り変わりのある花類は好ましくないそうです。ここに、常に変化しない、永遠の世界が理想とされていることが見てとれます。
 キリスト教においては、この世はもちろん大事ですが、もっと大事なのは、来世での永遠のやすらぎにあります。そのために、人々は神に祈り、善根を積んでいるのです。
 このように、「異次元の永遠の世界を理想とする」宗教がキリスト教であるならば、日本仏教は、「無常の現世に真実をみいだす」宗教である、ということができます。

「無常」に真実をみいだす仏教

 私たちの帰依する日本仏教では、「永遠の命」、「永遠の世界」を理想としておりません。
 豊かな自然に囲まれて、日本仏教は発生しました。深い山があり、澄んだ川が流れ、四季折々にその風情を変えながら、自然の恵みを与えてくれます。豊かな水、山の幸、海の幸、そこにご先祖様を感じたり、あるいは仏の声を聞くことができる恵まれた世なのです。ですから、砂漠で生まれた宗教と違い、天上の彼方に唯一の価値を求める必要はなかったのです。この世がそのまま理想であったとも言えます。
 日本の自然は転変極まりなく、春夏秋冬があります。寒い冬を乗り切れば、かならず春はやってきます。その春に咲いた桜もやがて散り、暑い夏がやってくる。ひとつとして永遠なるものは存在しない。人も生まれ、そして死ぬ。今、この世において、常なるものは無し、それが真実であります。「無常」を悟っていく。来世を願うのではなく、この世において、自然の中に永遠の命、死者の魂をみいだす、それが日本仏教の特質であるといえます。山を見て亡くなった祖父を思いだし、川を見て母を思う。森羅万象すべてに「おおいなるいのち」をみてとっていく。日本の自然と先祖崇拝とは、縁が切れません。
 ともあれ、今回の交流を通じて他宗教を学ぶことにより、かえって自身の宗教を見つめ直すこととなりました。