天地一杯に泣けばいい

 お釈迦様は、まだ釈迦族の王子だったころ、「この世は苦しみに満ちた世界だ」と心を痛められたそうです。あの「生老病死」の苦しみについてです。
 老いる苦しみ。病にかかる苦しみ。そして、死が訪れるという苦しみ。それらは生まれるということから始まります。生まれるという苦しみ。
 この「生老病死」の四苦に、もう四つを加えて、「八苦」と呼ばれるものもあります。「四苦八苦する」という、あの八苦です。
 憎い人と会う苦しみ「怨憎会苦」、求めても得られない苦しみ「求不得苦」、などがありますが、もうひとつ、大切な人と別れなければならない苦しみ「愛別離苦」がある、とお釈迦様はお気づきになられました。
 大切な人を亡くす。これは生きている限り、誰にでもある経験です。悲しくて仕方がないけれど、それでも私たちは、前へ前へと歩んでいかなければなりません。やがて時が過ぎて、死に別れたあの人は、自分の心の中に生きている。そう達観し、故人への思いを生きる力に変えていく。昔から私たちは、そうして大切な人の死を乗り越えてまいりました。
こういう古い歌があります。

「みほとけは どこにおわすと たずぬるに たずぬる人の 胸のあたりに」

 仏様はいったいどこにいらっしゃるのだろう、と尋ね、探しまわっている人がいますが、じつは、その人の胸のあたりに、心の中におられるのです、という歌です。
 なるほど、その通りだ、そう思って強く生きていこう。
と、頭の中では理解していても、それでもやはり時に淋しくて、恋しくて、逢いたくて、逢いたくてたまらなくなる、そんな思いがあります。お釈迦様は、その思いを否定しません。

「ただこの一点 無明の炎 練り出す人間の大丈夫」

 どんなにあきらめよう、断ち切ろうとしても、断ち切ることのできない迷いの心。それこそが、人間だとおっしゃっておられます。私は今まで何度も、この言葉に救われてまいりました。
 「煩悩がそのまま菩提なんです」と聞くと、楽しい時には思い切って笑えばいいんだ、悲しい時には天地一杯に泣けばいいんだ、と思えます。どんなに楽しいことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、前へ前へと歩んでいこう、そんな勇気がわいてきます。

(和歌山県西牟婁郡白浜町)聖福寺住職 関守研悟
妙心寺ホームページ「今月の法話」より抜粋